行動する前から「不可能」はない
私はよく、「不可能を可能に変えた男」とか「常識を変えた男」とか言われる。例のモハメド・アリとの異種格闘技戦や、フセイン大統領に対してイラクの人質解放を実現させたことなんかを指しているらしい。ところが、当の本人にはそんな意識は全くない。私は「こうしたい」と思うと、その気拝ちが純枠なエネルギーになって、行動に移ってしまう性分なのだ。
そもそも、「不可能を可能に変える」という言葉自体が作られた常識であって、物事はやる前から結果は一つではないはずだ。それを最初から不可能だと決め込んでしまう人。面自い、やってみれば何とかなるんじやないかと思う人。その二通りの考えがあるとすれば私は後者であるだけだ。
壁にぶつかったとする。その壁のところで止まる人。その壁をよじ登ったり、穴を掘って進む人。後者の生き方が苦労と感じるか感じないかによるものだと思う。
純粋な気持ちが行動へのエネルギー
モハメド・アリ戦の時も、お金のことを考えれば不可能と考えるのが正論だろう。何しろファイトマネーが38億円だと言う。しかも試合に勝ったらもらえるならまだしも、その金額を払って試合をするのはリスクが大きいと考えるのがビジネスとしては常識である。
しかし、私はそんなことは抜きにして、格闘技者として純粋に「戦いたい」という気持ちがあった。そのエネルギーが周りを動かし結果的に実現することができたのだ。
今でこそボーダレスという言葉が当たり前になってきているが、当時はボクシングは絶対的な世界で、プロレスとは交わらないと思われていた。当時の意識がそのような壁を作っていたのだ。だがら試合の内容はともかく実現させたことに私は価値があったと思う。
時代の先へ挑戦することの面白さ
当時はアリ戦の実現には批判が多かった。色々試練を受け、窮地にも立たされた。マスコミには「世紀の凡戦」とたたかれた。しかし、時間の経過とともに、今ではあの試合の評価が高くなっている。現在は当たり前になっている異種格問技戦も、当時は時代の先を行きすぎていたようだ。
私の場合、発想が10年も20年も早いと言われる。自分では早いと思っていないのだが、結果から見れば早いということになっている。もう少し発想のサイタルを遅らせられれば時代にマッチするのかもしれないが、感じてしまったらそれは止められない性分だからしょうがない。こうしたらこうなる、といった計算も何もない。一瞬のひらめきを行動に移してしまうものだから、誤解も多い。
しかし、挑戦することをやめてしまったら何も残らない。現状で満足するのか、時代の先へ挑戦するのか。私は枠にはまらない生き方が好きだからというのもあるし、それが楽しいし、面白い。人をびっくりさせることが好きだからかもしれないが、とにかく前へ進むことだけを考えている。
心の自由を持てば、人生も悔いがない
今の世の中、プロがいない。プロ中のプロがいれば、プロレスも政治も面自くできると思う。
総理大臣を例にとってみると、経済なら大蔵大臣とか、それぞれ専門家は周りにいるのだから、能力は万能ではなくてもいい。では首相として何が要求されるかといえば、カリスマ性に他ならない。こいつのあとについていけば何とかなりそうだなという雰囲気を持った首相が出てきてくれれば、夢をなくしたこの時代に夢を呼び起こしてくれるんじゃないかと思う。
プロがいない理由は何か。それは今の時代に欠落している「自由」という問題に突き当たる。
枠から出たい、けど出られない。制約が多すぎて、常識という手錠にがんじがらめになってしまっている人が多いのではないだろうか。本当の心の自由。「俺はこれがやりたいんだ」という気持ち。常識の枠にはまらずに生さることは大切なことだ。
一歩現状から踏み出す勇気。それで成功するか失敗するかは別問題として、その気持ちを持つことが悔いのない人生につながっていくのだと思う。
![]() |
![]() 本名、猪木寛至。昭和18年2月20日、横浜市鶴見区生まれ。昭和35年、力道山にスカウトされ日本プロレス入門。昭和47年、新日本プロレス旗揚げ、プロレスプーム、さらには異種格闘技プームを巻き起こす。平成元年、スポーツ平和党から参議院当選。今年4月4日には東京ドームで引退試合開催。現在は10月の世界格闘技連盟(略称・UFO)旗揚げへ向けて精力的に活動中。 |